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ページ番号:14892

更新日:2026年2月27日

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天武・持統天皇陵(檜隅大内陵)

てんむ・じとうてんのうりょう(ひのくまのおおうちのみささぎ)

記入年月日 2023年10月13日

天武・持統天皇陵外観

天武・持統天皇陵

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所在地

明日香村野口45

区分 遺跡|古墳
指定内容

陵墓

※各歴史文化資源へのご訪問の際は公開日・公開時間・料金等を別途ご確認ください。

歴史文化資源の概要

天武・持統天皇陵は、江戸時代から現在の丸山古墳とする考えが有力でしたが、明治13年(1880)に、文歴2年(1235)3月における盗掘の聞取調書である「阿不幾乃山陵記」の写しの存在が明らかにされたことにより、翌明治14年(1881)に治定されました。
この陵は持統天皇元年(687)10月に草壁皇子以下により築造され、翌2年(688)11月、天武天皇を葬り、のち大宝3年(703)12月に天皇としてはじめて火葬された持統天皇が合葬されました。
陵墓の詳細は、『阿不幾乃山陵記』や藤原定家の『明月記』に描かれています。それによると墳丘は5段築成の八角形墳で、南を入り口とする全長7.5mの大理石(瑪瑙石)積墓室があります。
墓室は前後2室に分かれ、奥が長さ4.5m、幅3m、高さ3mの玄室で全面朱塗りです。前室と玄室の間には、両開き金銅製の仕切扉が設けられています。玄室内には、天武天皇の葬られている布張り朱塗り棺と、持統天皇の火葬骨を納める金銅製の蔵骨器が、それぞれ金銅製の棺台の上に置かれています。現在の墳丘は南北約50m、東西約45m、高さ9mで八角形に近い平面をとどめています。

地域にとって大切な歴史文化資源である、その理由

江戸時代から天武天皇と持統天皇が葬られているという見解が見られ、旅人がたびたび訪れていたことが文献史料等で確認することができます。現代でも多くの来訪者があり、本村の重要な観光拠点となっています。

「記紀・万葉集」との関連とその概要

天武天皇は朱鳥元年に崩御し、持統天皇元年10月に「始めて大内陵」を築き、翌年11月に埋葬されてることが『日本書紀』に記されています。大宝2年に崩御した持統天皇は翌年12月に飛鳥岡で火葬され、同日に「大内山陵に合葬」されたことが『続日本紀』に記されています。

当資源と関連する歴史上の人物とその概要

天武天皇は壬申の乱で甥の大友皇子との争いに勝利し、即位しました。その治世では、政治の根幹となる律令の編纂や国史の編纂に加え、統一貨幣である「富本銭」の発行、身分制度である八色の姓の制定、「日本」や「天皇」といった呼称の創出など、現代まで息づく様々な制度等を構築しました。持統天皇は退位した後に日本初の律令である大宝律令を制定や元号の制定などを行い、崩御後は天皇で初めて火葬されるなど、歴史上も様々な画期を創出しました。

当資源と関連する文献史料

『日本書紀』『続日本紀』

当資源と関連する伝承

盗掘の聞取調書である「阿不幾乃山陵記」が明治時代に発見され、鎌倉時代における天武・持統天皇陵の実態が明らかになりました。陵墓に治定されている古墳の内部構造を知ることができる貴重な資料といえます。

他地域の関連する歴史文化資源

天皇陵としての八角墳は全国で5基しか確認されておらず、そのうち牽牛子塚古墳と中尾山古墳が明日香村内に所在します。他にも桜井市に段ノ塚古墳が、京都市山科区に御廟野古墳が位置します。

天武・持統天皇陵|明日香村観光ポータルサイト|旅する明日香ネット

 

問い合わせ先

明日香村教育委員会事務局文化財課

電話番号

0744-54-5600

近くの歴史文化資源

掲載されております歴史文化資源の情報は、その歴史文化資源が地域にとって大切であると考えておられる市町村、所有者、地域の方々により作成いただいたものです。
見解・学説等の相違については、ご了承ください。

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