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ページ番号:14911
更新日:2026年2月27日
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特別史跡 山田寺跡
やまだでらあと
記入年月日 2021年4月15日

山田寺跡全景(南西より)

山田寺跡塔跡(南より)

| 所在地 |
桜井市大字山田 |
|---|---|
| 区分 | 遺跡|社寺跡又は旧境内 |
| 指定内容 |
特別史跡 |
※各歴史文化資源へのご訪問の際は公開日・公開時間・料金等を別途ご確認ください。
歴史文化資源の概要
6世紀に伝来した仏教の公認と天皇による寺院造営の奨励にともなって、641年に有力氏族である蘇我倉山田氏が創建した氏寺です。飛鳥宮跡の北東に位置し、丘陵斜面を大規模に造成し寺院が造られています。塔・金堂、講堂を一直線に並べた百済式伽藍配置を継承しつつ、講堂を回廊外の北側に置く伽藍配置に発展させています。
発掘調査では、災害により倒壊した東面回廊が良好な状態で出土し、当時の寺院建築様式を豊かに復元でき、それは現存する世界最古の木造建築である法隆寺西院建築群を約50年遡る例です。
山田寺は都が「飛鳥・藤原」から平城京へ遷った後もこの地に留まりましたが、12世紀後葉には伽藍のほとんどは焼亡したものと推定されています。その後13世紀後葉には再興され、講堂跡の西北部において現在も山田寺として法灯が引き継がれています。
地域にとって大切な歴史文化資源である、その理由
史跡指定や発掘調査の進展に合わせ、山田寺跡の中心部は国による公有化が実施されるとともに、2000年までに整備工事が行われ、桜井市南部域や飛鳥地方を訪れるハイカー等が立ち寄る史跡となり、本地域を代表する文化遺産となっています。また、ユネスコ世界遺産暫定一覧に登録された「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群」の有力な構成資産候補ともなり、日本を代表する古代寺院です。
「記紀・万葉集」との関連とその概要
造営過程の詳細が、『日本書紀』や『上宮聖徳法王帝説』など文献に記録が残ります。それらによると山田寺は、舒明13年(641)に蘇我倉山田石川麻呂により造営が開始されますが、大化5年(649)に蘇我倉山田石川麻呂が皇太子である中大兄皇子に対する謀反を疑われ山田寺の金堂で自害すると(石川麻呂の変)、造営が中断されました。その後、天智2年(663)に塔の建造を再開しますが、中断を挟みながらも、天武14年(685)に講堂本尊である丈六仏(興福寺所蔵の旧山田寺仏頭)が納められ、天武天皇が寺院に行幸し、ほぼ完成したと考えられます。
当資源と関連する歴史上の人物とその概要
蘇我倉山田石川麻呂(山田寺を創建する)天智天皇、天武天皇、持統天皇(石川麻呂の死後、山田寺の造営に尽力)藤原道長(平安時代に山田寺に参詣)
当資源と関連する文献史料
『日本書紀』『上宮聖徳法王帝説』『続日本紀』『玉葉』『扶桑略記』など
当資源と関連する伝承
造営過程の詳細が、『日本書紀』や『上宮聖徳法王帝説』など文献に記録が残ります。奈良時代以降、正史から記述が少なくなりますが、治安3年(1023)には、藤原道長が山田寺に参詣したことが『扶桑略記』に記されています。『扶桑略記』には、山田寺の堂中の姿が「奇偉荘厳」と表現され、往時の山田寺の偉容がうかがえます。また、九条兼実の日記『玉葉』によれば、文治3年(1187)に、講堂の丈六薬師三尊が興福寺によって持ち出され、興福寺の再建された東金堂の本尊として安置されたとされています。
他地域の関連する歴史文化資源
桜井市:吉備池廃寺、阿倍山田道、安倍寺跡、山田寺仏頭(国宝)明日香村:飛鳥寺跡、飛鳥宮跡
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問い合わせ先 |
桜井市教育委員会文化財課 |
|---|---|
| 電話番号 |
0744-42-6005 |
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