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更新日:2026年2月27日

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小川晴暘と飛鳥園 100年の旅(2)

三浦 敬任(技師)

2024年6月16日

4月から連載企画となった「学芸員の部屋」。

前回に引き続き、特別展「小川晴暘と飛鳥園 100年の旅」の「実は…」を少しご紹介します。

飛鳥園が編集した雑誌・図書

皆さんのなかには「飛鳥園」が仏像写真を専門とする「写真館」と認識されている方も多いと思います。実際、この展覧会でも飛鳥園創業者の小川晴暘と2代目の小川光三の仏像写真を中心に陳列しています。様々なメディアで写真が取り上げられる飛鳥園ですが、一時期、精力的にお寺の仏像・建築図録(大観)や研究誌を編集・発行していたことは、あまり知られていないのではないでしょうか。

飛鳥園発行の研究誌には戦前~戦後にかけての、美術史・建築史研究者の名前が並びます。当時の飛鳥園はある意味のサロン的な場であったようで、その方々は飛鳥園主人(まだ会社ではなく、様々な文章で「主人」と書かれているのを見かけます)の小川晴暘と親交があり、その縁から『仏教美術』や『東洋美術』に寄稿していたようです。研究誌の内容に興味のある方は、国立国会図書館のデジタルコレクションでご覧いただけますので、是非。

さて「実は・・・」、この展覧会の準備を進めるうちに、10年ほど前の私が大学院生の頃、研究室の本棚の最下層にボロボロになってビニール袋に包まれた雑誌を見つけたことを思い出しました。その表紙の「飛鳥園」という文字と仏像写真の「飛鳥園」のつながりが当時の私には見えておらず(深く考えておらず)、10年ぐらいを経て、ようやく同じ「飛鳥園」の仕事と実感できたのでした。

筆まめ小川晴暘

前回の記事にもあるように、本展覧会の準備段階に、現在の飛鳥園社長・小川光太郎氏から「飛鳥園にはまだまだ日記やガラス乾板、小川晴暘の書いた絵、拓本があるから一度見てくれないか」という相談を受けました。ここでは現在もまだ調査が続けられている飛鳥園資料群を少しご紹介します。

本展覧会でも一部分だけ展示することが叶った資料群ですが、小川晴暘が飛鳥園を創業する以前のもの、すなわち姫路で兵役に就いていた頃の日記や大正8年12月に奈良で鹿や猿沢池を描いた絵日記、「東京朝日写真部より」と付記のあるスケッチがあり、さらに文展入選の《雪解の頃》の元となったような小さい作品も含まれます。

これまでは、小川晴暘の半生を描いた小説、島村利正『奈良飛鳥園』が“半分”基礎資料として扱われてきたのですが、資料からも小川晴暘の消息が詳細に追えることが分かりました。これら資料群の価値はこれから検証されるべきといえるでしょう。

ともあれ、価値をどうこう言うよりも先に、「晴暘さん、よくもここまで残したなぁ」と小川晴暘の筆まめさに感嘆してしまうのです。

左 小川晴暘の日記とスケッチ帳

右 小川晴暘の水彩画

小川晴暘のイメージ

黒バックに絶妙なライティングと構図で写し出された仏像写真が、信仰の対象として相応しい荘厳で厳かな雰囲気を醸し出していることは、鑑賞される皆さんにも同意していただけることと思います。

このような写真を撮る写真家は、さぞ、威厳があり立派な方なのだろうと想像してしまいそうですが、本展覧会でも展示したとおり、筆まめに記録した日記や雑記帳、彼の描く絵画、彼について述べられた文章を見ていくと、どっしりと構え威厳がある人物というよりは、全国を颯爽と旅する風流人のように思えます。

是非ともこの展覧会をご覧頂いて(7月6日から姫路市立美術館に巡回します)、皆さんの小川晴暘観を掴む手がかりにしていただければと思います。

最後に、ごく最近、飛鳥園の小川社長から教えていただいた、小川晴暘に関する記述も、そのような小川晴暘のイメージにマッチするものでしたので、ご紹介します。

「ついに意を決した僕(奈良原一高)は美術史への道をめざして早大の大学院にはいった。その弟子をこの日、小川氏(小川晴暘)は訪れたのだ。雪駄をはいた着物姿の小川氏は荷物ひとつ持たずに現われた。飛鳥園の戸口を散歩にでかけるようにすたすたと出て、すたすたと汽車に乗り、すたすたと電車に乗り換え、すたすたと駅を降りて、すたすたと街を歩いて、下宿の戸口からすたすたとはいって来たのだった。全行程を半時間で歩いてきたような気軽な現われ方だった」(()内は筆者が追記したもの)

奈良原一高『太陽の肖像:文集』(白水社、2016年)

最後に、籔内館長の発案で今年度初めに記念写真を撮りましたので、ここで公開いたします。右から2人目が本記事の筆者となります。

(2024年6月16日)

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