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ページ番号:14951
更新日:2026年2月27日
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土倉翁屋敷跡
どぐらおうやしきあと
記入年月日 2019年4月25日



| 所在地 |
川上村大字大滝36-1 |
|---|---|
| 区分 | 遺跡|その他 |
| 指定内容 |
村指定歴史記念物文化財 |
※各歴史文化資源へのご訪問の際は公開日・公開時間・料金等を別途ご確認ください。
歴史文化資源の概要
土倉庄三郎は、天保11年(1840年)、大滝のこの屋敷に生まれ、78年間の生涯を過ごしました。
地域にとって大切な歴史文化資源である、その理由
室町時代から植林が始まった吉野地域は、「吉野林業」という超密植、多間伐が特徴の造林法によって、良質な杉や檜を生み出してきました。この造林法を全国に広めたのが「日本林業の父」と呼ばれる土倉庄三郎です。
15歳のとき、林業家の父の代わりに家業を継ぎ、伐採した木材を運搬する際の監督役「吉野材木方」に就任しました。その後、優れた多くの材木を生産する、独自の「土倉式造林法」を編み出し、その技術を全国へと広げました。
当資源と関連する歴史上の人物とその概要
- 民間大学設立の夢を語る新島襄に賛同し5,000円を寄付し創立に尽力しました。
- 梅花女学校の講師、成瀬仁蔵が描く「日本女子大学」の設立に賛同し、大阪の事業家である広岡浅子を紹介し5,000円を寄付するとともに設立までの支援を行いました。
- 板垣退助の欧州洋行費のために2万円あまりを提供したほか、自由民権家の中島信行の遊説費用、日本立憲政党新聞に出資しました。
当資源と関連する文献史料
川上村史奈良県史土倉家文章目録(天理図書館)同志社史料編集室文書
当資源と関連する伝承
- 桜の名所と知られる吉野山。明治の初めのころ、吉野山の総代が、吉野山を訪れる人がなく、村人は生活に困っており、大阪の商人に桜の木を売り、杉檜の苗木の購入のために、庄三郎の元を訪ねてきました。そのことに驚いた庄三郎は、「これからの日本に、外国人が多く遊びに来るだろう。そのためにも吉野山の桜は保存しておかなければならない。」と、即座にお金を渡し、伐採は免れました。
- 吉野の奥地から木材を効率的に運ぶために、吉野川の改修や道路の建設を積極的に行いました。そのひとつが、現在の国道169号線にあたる「東熊野街道」です。川上村内、伯母峰峠に荷車が通れる道を開設し、明治20年(1887年)に完成させました。山林地主に道路建設のために出資するよう働きかけ、道路が完成後、木材運搬だけではなく人々の往来や物資の輸送が増え、村民の暮らしも一変しました。
- 土倉家所有の吉野の山林は、最盛期には9,000ヘクタール。大財閥の三井家に並ぶ財力を持っていたといわれています。その財力を「国・教育・事業」に均等に費やすことを信念とし、多くの政治家や社会活動を支援、明治期の日本の成長を支えた立役者の1人となりました。明治の元勲たちは、みな厳しい峠を越え、「土倉詣で」をするために、川上村を訪れました。
- 明治31年(1898年)に出版された『吉野林業全集』は、吉野の地形や杉檜の成長具合に合わせた施業方法、林業道具のイラスト、山守制度の説明、加工法など、林業家のバイブルそのものです。本の刊行にあたり、出版の費用となる5,000円の援助のほか、より多くの人の目にこの技術が触れるよう、自身の人脈を発揮しました。405ページにわたる本書は、山から市場までの吉野林業のあり方が描かれ、全国の林業地に大きな影響を与えました。
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問い合わせ先 |
川上村役場 林業建設課 |
|---|---|
| 電話番号 |
0746-52-0111 |
掲載されております歴史文化資源の情報は、その歴史文化資源が地域にとって大切であると考えておられる市町村、所有者、地域の方々により作成いただいたものです。
見解・学説等の相違については、ご了承ください。