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ページ番号:25902

更新日:2026年9月3日

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県指定 御霊神社本殿(霊安寺)

県指定文化財 御霊神社本殿(霊安寺)の沿革

今回保存修理の対象となった本殿のある御霊(ごりょう)神社は、奈良県五條市霊安寺(りょうあんじ)町に位置します。五條市は奈良県中西部にあり、北は大阪府、西は和歌山県に接し、市域を東から西へ横切って吉野川(紀の川)が流れます。霊安寺町の御霊神社は、この吉野川へ左岸方から注ぎ込む支流の丹生川東岸の丘陵上に社地を構え、川添いを通るR168(西熊野街道)からも見えます。

奈良時代後期、聖武天皇の第二皇女で光仁天皇の皇后だった井上(いのえ)内親王とその子、他戸(おさべ)親王がこの地に幽閉され、不遇の死を遂げました。その死後に起こった怪奇な出来事が井上等の怨霊によるとされ、桓武天皇の勅願によって、井上内親王・他戸親王の御霊を弔うために霊安寺が建立されました。延暦19年(800)、同じく不遇の死を遂げた早良(さわら)親王を合わせ、3柱を祭祀するに至ったのが御霊神社の始まりとされています。中世には、嘉禎4年(1238)、在地武士、河南の吉原氏と華北の豪族牧野氏の争論が発端となって、御霊社が10箇所に分祀されたことが、「御霊宮本紀」にみられます。その10社とは、西阿田、佐名伝(さなて)(現・大淀町内)、山田、小島、六倉(むつくら)、岡、二見、中之、黒駒(くろま)、近内の御霊神社とされ、その後さらに、南阿田、湯谷市塚(ゆたにいちづか)、島野、釜窪(かまのくぼ)、丹原、久留野、小和(おわ)、牧、畑田(はたけだ)、三在(さんざい)、住川(すがわ)、野原にも分祀されました。結果、旧宇智郡下(概ね旧五條市域)に霊安寺を含めて23社の御霊神社が存在し、畑田の1社を除いて現存しますが、当社はこれら御霊神社の総本宮に位置付けられます。なお、中之の御霊神社本殿は国指定重要文化財に、霊安寺と黒駒の御霊神社本殿は県指定文化財に指定されています。

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<修理前>

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<修理後>

 

本殿の概要

当社本殿は、東面して鎮座します。「三間社流(さんげんしゃながれ)造り」という構造形式で、屋根は檜の樹皮を用いて仕上げる「檜皮葺き」です。「流造り」は、神社本殿の構造形式として全国的にはメジャーですが、春日大社本殿に代表される「春日造り」がメジャーな奈良県下においては、むしろ少数派といえます。4面に縁を廻らせて、脇障子を配置しない点も、近傍では外に遺構例がなく、当社本殿の特徴の1つといえますが、実は京都の賀茂御祖(かもみおや)神社(=下鴨神社)東本殿・西本殿(文久3年)、賀茂別雷(かもわけいかずち)神社(=上賀茂神社)本殿・権殿(ごんでん)(文久3年)と同じ形式です。また、桁行5.5m、梁間5.6mという規模(柱真々距離)は、三間社としては比較的大きく、両鴨社の社殿にも匹敵する規模で、御霊社総本宮としての格を表しているといえるでしょう。

本殿の構造は、庇は三間に面取角柱を立て、組物は連三斗(つれみつど)、透蟇股(すかしかえるまた)を中備(なかぞなえ)とし、両端は海老虹梁(えびこうりょう)で身舎(しんしゃ)と繋ぎ、中央間は彫刻手挟(たばさみ)で納めます。身舎は桁行三間、梁間二間とし円柱を立て、内法長押・腰長押をまわします。身舎内部は畳敷き、間仕切りのない単室の神殿とし、柱間は、正面中央間にのみ弊軸(へいじく)構えの板扉を設け、その外の間は板壁で閉ざします。組物は出三斗(でみつど)、中備は正面・側面を片蓋の透蟇股とし、背面は間斗束(けんとづか)(撥束(ばちつか))とします。妻は、梁上に三斗組2具と中央に大斗絵様肘木を置き、上の虹梁大瓶束(こうりょうたいへいづか)を受ける二重虹梁形式とします。軒は二軒繁垂木(ふたのきしげだるき)とし、棟は千木(ちぎ)・堅魚木(かつおぎ)付きの箱棟を置き、棟端は鬼板で納めています。身舎4面には跳高欄(はねこうらん)付きの縁を廻らせ、庇部には浜床(はまゆか)を設け、中央間にのみ6級の木階(もっかい)を配置しています。木階には擬宝珠(ぎぼし)柱付きの登高欄(のぼりこうらん)を設け、浜床上には袖高欄(そでこうらん)を拡げています。内法長押と懸魚には木製六葉が、身舎正面扉や箱棟に付く飾金具には、当社の神紋である菊花紋と桐紋があしらわれています。また、柱頭、正面内法長押、組物、桁、妻の大瓶束ほかには彩色が施されていることが判りました。彩色部より下方の軸部、縁・高欄廻りの造作、正面柱間装置については、漆塗り、逆に桁から上方の軒廻りや螻羽については、膠を展色剤とする単色塗装、で塗り分けられていました。

 

現本殿の建立及びこれまでの経過

現在の本殿は意匠に桃山期の要素が含まれますが、棟札や史料が残されており、総合的に判断すると寛永14年(1637)の建立とみられます。建立後については、享保19年(1734)、天保10年(1839)、慶應4年(1868)の棟札が残されており、屋根葺替え等の修理が実施されたとみられます。このうち、享保19年の修理については、過去の修理の中で、構成部材からも該当する紀年銘を確認の記録がありました。近代以降では、明治41年(1908)8月付けで、修理が完了した旨の木札があり、屋根葺替えを主とする修理が為されたようです。さらにその後、昭和15年(1940)に皇紀2600年事業として着手した境内整備の一環で、本殿の解体修理を昭和17~18年に掛けて実施しました。取替え材等に修理銘焼き印が押されていたことから、文化財指定前とはいえ、当時文化財修理に関わっていた技術者から何らかの指導があったものと推察されましたが、当時の棟札が別に保管されており、工事監督に奈良県社寺修理技師、黒田昇義の名前が確認されました。戦後、昭和29年(1954)に奈良県指定有形文化財となりましたが、これに先立つ昭和28年9月25日に台風13号に伴う倒木によって、左手背面の軒を損壊しました。昭和32年3月までに一応の復旧工事を実施したようですが、極応急的なものだったとみられます。その後、さらに昭和42年(1967)に屋根葺替えが実施されたのが、本殿についての直近の保存修理工事でした。

 

修理前の破損状況と今回の修理方針

今回の保存修理工事は昭和42年以来、実に50余年ぶりの実施で、檜皮葺きの耐用年数が一般的には30年(実際には環境によって長短あります)とされますので、かなり保たせた方という印象ですが、実際には屋根面全面に厚い苔がむしており、そこから草木が生えている箇所もありました。また、小動物や落枝によっていくつか穴が開いており、かなり無理をしてきた感が否めませんでしたが、一方で文化財を継続的に管理していくことの困難さをあらためて痛感させられるところでもありました。屋根面の破損は、屋根から内部へ雨水の浸水を許す原因となり、結果的に、一部軒廻り材の腐朽が進行していました。また、その軒廻り材については、部材の折損等かつての倒木による影響も残されており、今回はこれら木部に対しての対応も必要となりました。さらに、塗装の経年劣化への対応や、極彩色が施されていたことも知られており、これについても残されているうちに調査記録する必要がありました。以上を考慮して、今回の保存修理では、「屋根葺替え・部分修理・塗装修理」という方針を立て、屋根の葺替えが主となる工事ながら、木部についても部材の取替えを伴うやや大きな部分修理を実施し、塗装については、彩色調査記録と保存処置を含む修理を実施しました。

 

今回の修理の概要

工事期間:令和4年(2022)2月~令和8年(2026)6月〔工期;4年5箇月〕

工事費 :1億4千万円

修理方針:屋根葺替え・部分修理・塗装修理

 

屋根檜皮葺きは、全面葺替えし原則として同仕様で復旧しました。屋根の下地となる野地については、腐朽箇所と、軒廻りの修理に必要な範囲については解体しましたが、取り替えは最小限にとどめました。屋根最上部の箱棟については、棟端を飾る鬼板や雁振りの一部を取り替えましたが、それ以外は元の材を用いて復旧しました。ただし、これを被覆する銅板については、全て新調しました。

木部の部分修理では、軒廻り、縁廻り等で、一部解体を伴う修理を実施しました。中でも最も手間を要したのは、破風(はふ)という妻を仕舞いする大きな部材を1箇所丸ごと新材に取替えたことでしょう。元の材は継手(つぎて)や矧目(はぎめ)がなく、自然の曲がりを持つ一材から加工したものでしたが、何度かの倒木によって中央付近で折損したものを、金物で補強して使用し続けている状態でした。そのため、破風の先の方が大きく垂下し、これに伴って軒の線も大きく乱れていました。当初の計画では、折れた位置で新材を継ぐことにしていましたが、継いでは強度が出せないだろうこと、また、一材で造られているオリジナル性を残すため、再検討を加え、新たに同様の曲がり材を探し出して取り替えることとしました。なお、元の部材は、建立当初からの貴重なものでしたので、本殿の屋根の中に保存することとしました。

御霊神社屋根修理解体前

<修理解体前>

御霊神社屋根修理後

<修理後>

 

塗装については、彩色範囲を明らかにし、その内容と状態を、見取り図、白描図を製作して記録しました。また、彩色範囲については、今回の修理ではこれを掻き落として新たに描き直すことはせず、現存している塗膜にそのまま保存処置を施しました。保存処置は、古来使用している膠(にかわ)を用いて、浮き上がったり粉状化しかけたりしていた塗膜を木地に定着させる剥落止めを行いました。彩色範囲より上方の単色塗装部(軒廻り・妻)や、下方の漆塗り部(軸部・柱間装置・高欄廻りほか)については、原則として旧塗装を掻き落して塗り替えました。特に身舎正面では、確認できた金箔を復旧したので、修理前と比較するとかなり見栄えが変わりました。

身舎正面や箱棟に付く神紋等の飾金具は、元の材の形状を修正したり、錆や汚れを落としたりした上で、金箔を押し直して復旧しました。

また、塗装工事実施に伴って、自火報の空気管を一時撤去しましたが、これも再度配管し直して復旧しました。

さらに、火災の早期発見のため、別に炎感知器を新設しました。

御霊神社身舎修理前

<修理前>

御霊神社身舎修理後

<修理後>

 

よみがえった御霊神社本殿、是非お参りください。

 

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