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更新日:2026年9月3日

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重要文化財 旧織田屋形大書院及び玄関

重要文化財 旧織田屋形大書院及び玄関の沿革

江戸時代に柳本藩織田家によって建てられた御殿で、もとは黒塚古墳の近くにある天理市立柳本小学校の敷地にありました。江戸時代の初め頃に建てられた御殿が焼失したため、天保7年(1836)から再建がすすめられ、天保15年(1844)に竣工しました。

明治に入ると、新政府によって旧御殿は民間に払い下げられることになりましたが、大書院と玄関は地元の方々の努力によって買い留められました。明治10年(1877)4月以降は大書院と玄関は柳本小学校の校舎として使用されました。

昭和に入ると、新校舎建設に伴い撤去されることとなり、大書院と玄関は橿原神宮に奉納されました。移築復原工事は昭和40年(1965)から解体工事に着手され、昭和42年(1967)に竣工しました。竣工後まもなく重要文化財に指定され、指定名称は「旧織田屋形大書院及び玄関」となりました。橿原神宮では「文華殿」と呼んで披露宴会場や文化的行事に利用されています。

織田屋形

 

重要文化財 旧織田屋形大書院及び玄関の特徴

大書院の平面は、対面のために用いられた上段・中段・下段の三室があり、下段からL字状に二室が続き、さらに来訪者の控室とみられる床の間を備えた勤(つとめ)の間が北に続きます。

これは、寛永15年度の江戸城本丸御殿大広間(将軍に謁見する広間)の部屋のつながりと同じであることがわかります。さらに言えば、上段・中段・下段の床の高さを変える点でも一致しています。大書院にはかつて南東隅から南に延びる廊下状の付属屋「鉄砲の間」がありました。

こうした突出部は「中門」と呼ばれ、寝殿造の玄関として用いられた廊下状建物の名残です。大書院には寝殿造にみられる蔀戸(しとみど)も用いられています。寝殿造以来の伝統を受け継いだ御殿建築であり、同様の江戸城本丸御殿大広間が失われた現在、それを偲ぶことができる唯一の建物です。

平面図

 

今回の修理工事について

修理前は、大書院、玄関とも屋根瓦にはズレ・破損等が見受けられ、軒先の部材にも雨漏りによる腐朽が見られました。外壁はカビが発生し、内部砂壁は木部との間に隙間が生じ、剥落が見られました。床は礎石の不同沈下によるものとみられる不陸が生じていました。

軸部及び小屋組には目立った破損がみられないため、半解体修理によって不陸を解消することとし、地質調査および対策工法の検討、設計を行った結果、建物を一旦ジャッキアップし、べた基礎コンクリートを打設しました。また、屋根瓦の葺替え及び軒回り等木部の修理、壁や漆塗りの塗直し、破損および汚損した建具・表具の修理、畳の表替えおよび新調もあわせて行いました。

また、耐震性能を診断した結果、性能不足が認められたので構造補強も行いました。大書院の南側は庭園の眺望が楽しめるように壁がほとんど無いため、その補強方法が問題になりましたが、新たにガラス耐震壁を開発し、庭園の眺望と建物の外観を損なうことなく補強することができました。

修理の流れ

 

今回の修理でわかったこと

今回の修理に伴う調査で、書院造では他に類をみない工夫を発見しました。それは大書院の下段から上段にかけて柱や長押の太さを細くすることで対面する人から見て藩主が遠くに見えるようにしていたことです。客人に藩主との格差を視覚によって示す効果があります。このような視覚効果は茶室や数寄屋建築でみられるものです。藩祖織田尚長の父である織田有楽斎(長益)は千利休に茶道を学び、有楽流を創始します。キリシタン大名としても知られ、西洋文化に触れる機会もあったことから織田家に建築技術の秘伝があったのかもしれません。

他には、工事中に発見された江戸時代の墨書から天保再建時の木材の流通ルートがおおよそ明らかになりました。

普段は非公開ですが、南側の遊歩道から塀越しに旧織田屋形大書院及び玄関の姿を望むことができます。橿原神宮を訪れた際は、是非美しい姿を取り戻した旧織田屋形大書院・玄関をご覧ください。

竣工内部画像

 

橿原神宮についてはこちら(なら旅ネット)

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