印刷
ページ番号:10579
更新日:2026年2月27日
ここから本文です。
はじめての万葉集
県民だより奈良
2022年11月号

【vol.103】
やすみしし わご大君(おほきみ)
高光(たかひか)る 日の皇子(みこ)
ひさかたの 天(あま)つ宮に
神(かむ)ながら 神(かみ)と座(いま)せば
其(そこ)をしも あやにかしこみ
昼はも 日のことごと
夜(よる)はも 夜(よ)のことごと
臥(ふ)し居嘆(ゐなげ)けど
飽(あ)き足(た)らぬかも
置始東人(おきそめのあづまひと) 巻二(二〇四番歌)
訳 あまねき支配者のわが大君、高く輝く日の御子、遥かな天の宮殿に神々しく神としておいでになったので、そのことを不思議なほど恐れ、昼は一日中、夜は一夜中、身をふせ、座り、嘆くのだが、心の満たされないことよ。
弓削皇子(ゆげのみこ)への挽歌
この歌は、天武天皇の皇子のひとりである弓削皇子が亡くなった時に、置始東人が詠んだ長歌です。「やすみししわご大君」とは天皇への讃美表現ですが、天武天皇の皇子たちにも用いられました。
弓削皇子は天武天皇と大江皇女(おおえのひめみこ)との間に生まれた皇子で、大江皇女は天智天皇の娘であることから、天智天皇の孫にもあたります。『懐風藻(かいふうそう)』には、持統天皇十(六九六)年に高市皇子(たけちのみこ)が亡くなった際、皇位を継ぐ人物を選定する場で弓削皇子が発言しようとして葛野王(かどののおおきみ)に叱責されたとあります。このとき弓削皇子は、同母の兄である長皇子(ながのみこ)を推薦しようとしたと考えられています。長皇子と弓削皇子は父母ともに皇族であり、皇位を継承するに足る身分であったといえます。しかし、天武天皇と持統天皇の子である草壁皇子(くさかべのみこ)の子・軽皇子(かるのみこ)が皇位を継ぐことは、すでに内定していたといわれます。翌年には即位し、文武天皇となりました。
弓削皇子が亡くなったのは、文武天皇三(六九九)年のことでした。この歌の作者である置始東人は生没年未詳ですが、同年の難波行幸にも同行して歌を詠んでいます。
(本文 万葉文化館 井上さやか)


粟原寺跡(おおばらでらあと)(桜井市)
弓削皇子の異母兄弟である草壁皇子を追善(ついぜん)するために発願された寺院で、持統天皇八(六九四)年には金堂と丈六の釈迦像が造られました。談山神社所蔵の当寺院の三重の塔の伏鉢(国宝)には寺院創建の由緒を記した銘文が彫られており、現在は奈良国立博物館に寄託されています。当地には礎石だけが残り、「粟原寺跡」として国の史跡に指定されています。

写真:桜井市所蔵
- 所 桜井市粟原
- 問 桜井市教育委員会文化財課
- 電話 0744-42-6005