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ページ番号:14967

更新日:2026年2月27日

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袖振山

そでふりやま

記入年月日 2021年8月27日

袖振山

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所在地

奈良県吉野郡吉野町吉野山

区分 名勝|山岳
指定内容

史跡・名勝 吉野山

※各歴史文化資源へのご訪問の際は公開日・公開時間・料金等を別途ご確認ください。

歴史文化資源の概要

吉野山の勝手神社南にある山です。壬申の乱の前、大海人皇子が吉野に入られた時に、大海人皇子が吉野山で琴をつま弾いていると、天女が舞い降り、五度袖を振って舞ったといいます。これが、今も宮中で行われている五節舞のはじまりだとされています。この伝承は『吉野拾遺』にみられ、遅くとも室町時代には成立していたものとみられます。ちなみに、『吉野拾遺』は南北朝時代の南朝方のこぼれ話をまとめたような資料です。同書では、袖振山にまつわる以下のような話を掲載しています。
-後醍醐天皇が吉野山で豊明節会を催したところ、京都の御所での節会とあまりに違うので、そのことを残念がられていました。その時、ふと袖振山が目に入った後醍醐天皇は、「袖かへす天津をとめも思ひいでよよしのの宮の昔がたりを」とお詠みになります。すると、夢でもなく現でもなく、袖振山から白い雲がたなびいて、庭にあった冬枯れの桜のこずえにとどまりました。そして、どこからともなく少女が現れて、「かへしなば雨とやふらむ哀れ知れ天津をとめの袖のけしきを」と詠んで雲に隠れたそうです。
後醍醐天皇の歌にある「よしのの宮」は飛鳥~奈良時代にあった吉野宮のこと。大海人皇子が吉野宮で過ごしていた時、天女の舞をみて五節の舞の起源となったことは、奈良時代の『続日本紀』から長く語られていました。そのことを思い出し、後醍醐天皇は歌を詠まれたのでしょう。

地域にとって大切な歴史文化資源である、その理由

袖振山は、江戸時代の地誌や謡曲に多く引用されていて、多くの観光客に紹介する大切な観光資源でした。吉野山の金峯山寺刊行の『金峯山寺史』にも、袖振山について丁寧に解説されています。同地は、今も史跡名勝吉野山の指定地として、世界遺産の一部にもなっています。今日でもひきつづき、地域の大切な資源として保管されています。

「記紀・万葉集」との関連とその概要

壬申の乱開戦前の大海人皇子にまつわる、いわばサイドストーリーの舞台です。壬申の乱が始まる前、大海人皇子が吉野に来られたときに、大海人皇子が琴をつまびくと天女が舞い降り、袖を5回ひるがえして舞ったという場所。五節の舞の起源とされています。

当資源と関連する歴史上の人物とその概要

【大海人皇子】天智天皇の弟。天智天皇の没後、壬申の乱に勝利して天武天皇となった。
即位後は官制改革、都の遷都、『古事記』編纂の指示、貨幣の発行、寺社の整備など様々な改革や取り組みを行ったことで知られる。後世の軍記物語でも紹介されるなど、人気が強い歴史上の人物のひとり。
【後醍醐天皇】南朝をひらいた天皇。

当資源と関連する文献史料

大海人皇子の文献としては『古事記』『日本書紀』。五節の舞については『続日本紀』『年中行事秘抄』『江談抄』『源平盛衰記』など。袖振山については『吉野拾遺』『古今私秘聞』『大和名所図会』『吉野山独案内』など。

当資源と関連する伝承

壬申の乱の前、大海人皇子が吉野に入られた時に、大海人皇子が吉野山で琴をつま弾いていると、天女が舞い降り、五度袖を振って舞ったといいます。これが、今も宮中で行われている五節舞のはじまりだとされています。

他地域の関連する歴史文化資源

【衣笠山】大海人皇子が岩屋に隠れていた時、天女が舞い降りてこの山に衣をかけたと言います。
【日雄】吉野山にある地名です。吉野山ではこの場所に、吉野宮があったと伝わります。
【桜本坊】吉野山で過ごす大海人皇子が、冬の寒い日に満開のサクラを見たと伝わる場所に建てられた寺院。※現在、創建時とは場所が変わっています。

 

問い合わせ先

吉野町産業観光課

電話番号

0746-32-3081

近くの歴史文化資源

掲載されております歴史文化資源の情報は、その歴史文化資源が地域にとって大切であると考えておられる市町村、所有者、地域の方々により作成いただいたものです。
見解・学説等の相違については、ご了承ください。

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