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ページ番号:15095
更新日:2026年2月27日
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藤原不比等
かつて奈良には辣腕政治家がいた!
不比等―比べる者がいないほど優れている。『日本書紀』や『続日本紀』に、このような名で登場する藤原不比等は、658年、現在の明日香村で中臣鎌足(後の藤原鎌足)の次男として生まれました。名については、当時は「史」(ふひと)という漢字をあてていましたが、後世では「不比等」とされています。その名のとおり、古代日本の立役者として類い稀な辣腕ぶりを発揮し、大宝律令の立案や平城京遷都などに尽力しました。
したたかな政治手法―天皇家の外戚として権力を握る
689年、不比等は裁判をつかさどる官人として政界デビューを果たします。
下級役人からのスタートでしたが、ほどなく才覚を現し、持統天皇のもとで重用されるようになります。

697年、不比等の娘宮子が文武天皇の妃となったことにより、不比等は天皇家の外戚(=母方の親戚)として着々と藤原氏の権力基盤を築いていきます。
そして、ついには、孫である首皇子(おびとのみこ)の即位を画策するようになります。
しかし707年、首皇子が7歳の時に、文武天皇が25歳の若さで崩御します。
幼い首皇子を即位させるわけにもいかず、不比等は元明天皇(女帝)を立てることによって時間稼ぎをしたといわれています。
(不比等の死後、首皇子は聖武天皇として即位)。
このように、天皇家の外戚としての立場を利用しながら権力を築いていくという手法は、不比等ならではの、非常にしたたかなものであるといえます。
平城遷都は不比等の策略
持統天皇が694年に完成させた藤原京は、首都機能を備えた本格的な都でした。しかし、早くも708年には元明天皇によって遷都の詔が発せられます。時間と労力をかけて造営した藤原京を捨てるというのです。その背景には、不比等の隠された2つの意図がありました。
1つ目は、新しい都を造ることにより、飛鳥地方の豪族たちの影響力が及ばないようにすること。
そして2つ目は、孫である首皇子が天皇としてデビューする場所を造ることです。
そして、不比等の思惑どおり、710年に平城京への遷都が行われました。
藤原氏の隆盛
不比等は720年、63歳で死去しましたが、最期まで首皇子の即位を気にかけていたのではないでしょうか。
その首皇子は724年に即位して聖武天皇となり、不比等の悲願が実現しました。
その後も、皇族との結びつきを背景に、藤原一族は宮廷における発言力を次第に強めていきました。
その隆盛ぶりは、藤原道長が詠んだ和歌「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思えば」によく表れています。
現在、世界遺産に登録された春日大社と興福寺は、藤原氏ゆかりの社寺として大いに栄え、
ありし日の不比等の姿と藤原氏の隆盛を、いくつもの時代を越えて現代に伝えています。
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